2016年05月27日

『ズートピア』がすごい:脚本編

さて、三部作完結編。『ズートピア』の脚本について。
この作品の楽しさが、ブロックバスター的なエンターテイメント要素盛り沢山ということに起因していることは前にも書いた。バディものであり、ノワールであり、ディストピアSFであり、正気を失った動物たちはゾンビ映画のようであり、昔ながらの活劇であり、、、そこに幾つものパロディを加え更に社会的な強いメッセージを盛り込んでいるのだから、映画としてのサイズはかなり巨大である筈だ。しかし、結果として子ども向けアニメとしての適正な尺(というか映画って大体このくらいでいいよね)に収まっているし、詰め込み過ぎて筋がわかりづらい、なんてことも当然ない。
これはただただ、脚本の構成の巧さである。と言っても、新しいことも珍しいこともやってはいない。基本に忠実に精緻に組み上げられているだけだ。
物語の筋としては典型的なポリスストーリーである。興味の持続として「陰謀の黒幕は誰か」というサスペンスがあり、そこに主人公と相棒の関係性(男女ペアなのにあまり恋愛が前面に出てこないのもいい)の成長がメインの柱としてある。まず「あらすじ」がしっかりしているからそこに様々な要素を入れ込んでもブレないのだ。そして、物語の展開が適度に早く、説明的なシーンがないこと。世界観の説明を「劇中劇」という形で冒頭にやってしまうのもそうだし、前回触れた街のギミックやガジェットで「そういうものなんだな」というルールづけをしっかりやっているから、余計な説明を必要とせず、アクションや謎解きに時間を使える。エンターテイメントのお手本のような作り方である。
また、印象的な台詞やシーンを「伏線回収」したり「引用」したりすることで、登場人物の成長に説得力を持たせつつ、物語としての「快感」を増すという誰もが好きな手法をきっちり決めることで、ストーリーテリングのスピード感を落とさずに、物語のターニングポイントを明確に観客と共有することに成功している。
なかでも物語が展開する要所の核となる、騙して協力させる→逆に騙して本音を言わせる→2人で協力して騙す、という同じ手口の連鎖・展開が本当に見事。しかも暴力ではなく知恵での解決、というのも野生・本能(生得的差異、そこから産まれる差別感情)を超えた「理性」の勝利、「内なる獣性のコントロール」という本作のテーマにも則っていて、更にそれが冒頭の演劇シーンともリンクしているのだから、鮮やかの一言。ニックとジュディのニヤッという表情が、観客にも「やられた!」という快感を残す、素晴らしい解決パートだ。
ただ、そもそも多機能(ペン+ボイスレコーダー)の小道具を多義的に使ってそれで巧さを見せる、というのは正直少しズルだとも思う。まあ実在するアイテムだからセーフだし、書類を出して「ペンならある」と言って渡すシーンがちゃんといいシーンなのでOKだ。。完全に架空のアイテムであれをやったら完全にご都合主義の反則(長期連載のマンガなどでまま見られる)である。
このように、伏線回収や引用には物語の推進力となり、解決の満足感につながる快感がある。そして、それにより観客を物語に乗せ、最小限の要素で説得力を持たすことができる。しかし、最近になって「気持良い」に留まらない、ある機能があると考えるようになった。
『マッドマックス:怒りのデスロード』で印象的な台詞(そもそもこの映画自体台詞が殆どないのだが)がある。「Redemption」、訳すと「解放」や「贖罪」になるのだが、この言葉が主人公とヒロインの間でキーワードとして交換されるのだ。
暴力的支配者イモータン・ジョーから逃れたヒロイン、フュリオサは自分の行動を「Redemption」である、と主人公マックスに語る。旅の果て、すべてを失ったフュリオサたちにマックスは言う。ジョーから逃げるのではなく、彼のテリトリーを奪うことこそ残された最後の道、「Redemption」であると。
このシーンを観てから、物語の技法としての「引用」に、単純な伏線的快感以上の効果があることに気付いた。引用は、コミュニケーションなんだ。相手の言葉を受け取っての引用によって、二人の魂の交換を表現する。コミュニケーションのもっとも格好いい物語表現が、この引用だと俺は思う。その引用が意識的にしろ無意識的にしろ、自分の言葉が相手の口で・行動で再現され、それによって奮い立つ。相手が自分の言葉を理解し受け取っていることが伝わる。このように、「引用」に勝る「交感」の描き方はなかなかないんじゃないかな、と思うのだ。また、アメリカン・アニメ映画の超傑作である『アイアン・ジャイアント』でも主人公と相棒である巨大ロボットの間で引用がなされ、それが物語のテーマとも一致している(のでぜひ観てください。最高だから)。
『ズートピア』は明確なワン・センテンスの交換ではないが、先述した「騙す→騙される→二人で騙す」という、その交換自体が最終的に「必殺技」になっている構図がとても美しい。台詞のやり取りでないのでスマートさいは欠けるが、その分鮮やかさと意味性を、伏線的快感と物語的快感をフィニッシュとして同時に味わえる強いシーンになっていたと思う。
伏線・引用は効果的に使えば、登場人物の成長やコミュニケーションや関係性の深化を描くことができる素晴らしいツールだ。単に気持いいから、脚本巧く見えるから、で使うのは勿体ない。
まあそもそも、まともな伏線にもなっていないものが伏線と呼ばれるこんな世の中じゃ、なんだけど毒を吐くのは別の機会にしよう。
最後に、ラストシーンについて触れておきたい。
ディズニーのお家芸パーティーシーンでハッピーエンド、そのままクレジット。なのだが差別の構造的な根っこの部分が解決されたわけでは当然、ない。そしてそういう風には描かれない。あくまで解決したのはひとつの事件(ケース)で、本質的な都市の暗部は残ったままだ。
しかし。
肉食動物も草食動物も、音楽でひとつになれるんだ。
流れるテーマ曲(シャキーラの『Try Everything』)は、まさにアメリカン・ポップスという楽曲だ。それはR&Bだったり、ハウスミュージックだったり、多民族国家アメリカだからこそ産まれた様々な音楽のミクスチャーである。それが今世界中で鳴っている。世界中がアメリカンポップス、そしてそれに影響を受けた音楽でで踊っている。
都市としてズートピアが抱える問題は、アメリカの問題そのものだ。だけど、そのアメリカで産まれた文化(カルチャー)は、やっぱりすごいものだと俺は思う。アメリカって国に関しては(特にあのバカがしゃしゃり出てきてからは)色々思うところはあるのだけど、そして影は決して消えないけど、音楽で、そして映画で。彼らが発信し続ける肯定的なメッセージは本物だ。アメリカが、その血みどろで哀し過ぎる歴史の果てに掴んだ多様性が産んだ、最先端の表現で、俺たちは繋がれる。そしてアメリカン・カルチャーは、(例え世論が時代がヤバい方に傾いても)「理想」をメッセージとして発信し続ける。あのエンディングはただのパティーシーンではなく、そんな強い覚悟の表現だと感じた。こんな「今」だから余計にそう感じた。


posted by 淺越岳人 at 19:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

『ズートピア』がすごい:設定編

前回に引き続き。だいぶ大上段になっちゃてたから少しライトに書こう。
設定編、ということで更にディティールに突っ込んで観ていく。

実際の動物のサイズ、に基づいてキャラクターの背丈を決め、という部分については前回触れた。このように、擬人化・デフォルメはすれどかなり実際の動物の生態に忠実に描写している。
もともと、ディズニーの行う動物をキャラクタライズするときの凄みは、この「動物感」だ。とてもかわいらしく魅力的なキャラクターを生み出すことについては説明不要のディズニーだが、こと動物をキャラクター化するとき必要以上に手を加えず、動作や表情に至るまでかなり動物的なアクションを残し擬人化を抑えて、という絶妙なバランスをを実現している(古くは『白雪姫』『バンビ』の森の動物たち、擬人化したものとして『ロビンフッド』や『ジャングルブック』を観よ)。動物ならではのワイルドでダイナミックな挙動と、キャラクターとして感情を伝えきるデフォルメ。このバランス感覚が、まさに『ズートピア』のキャラクターを魅力的にしている。
デザインで言えば、特筆すべきは主人公ジュディのセクシーな曲線美。アメリカン・アニメの伝統とも言っていい女性的セクシーさと、そもそもウサギがもつ肉感的なフォルムの完璧な融合。ぴったりとした衣装も似合う。しかし決してエロく・イヤらしくならず、健康的な部分が前面に出ている。
動物的挙動で衝撃的だったのは、事件解決後のカワウソ夫婦の抱擁シーンである。絡みつくような動きは完全にカワウソのそれ以外のなにものでもないのに、それは意識を取り戻した夫を迎える妻の行動でもあり、人間的行動と動物的行動がどちらに偏るでもなく、重なり合ってひとつのシーンを作っていた。そしてアニメーションであの生物的な生々しさ(重複表現)を表現する技術力。
この二点のどちらにも言えることだが、一種偏執的にもとれるリアル志向・テクニカル的な挑戦が、さりげなく物語に取り込まれている。
ただ、それらのシーン以上にその「動物感」を存分に発揮しているのがギャグシーンだというのが、最高に格好いい。
みんな大好きナマケモノのフラッシュに始まり、社会性の強いトガリネズミが家族を愛するマフィア(だから『ゴッドファーザー』パロディなんて子どもにわからんて)で、このように動物の生態をうまくギャグにしている。ただのスラップスティックではなく(もちろんそれとしても最高級)、キャラクターが動物であることをきちんと活かしてのギャグシーンなのだ。このように徹底的に設定を突き詰めて突き詰めて、筋書だろうが美術だろうがギャグだろうが、その根っこから生えたアイディアのみで構成する。だからひとつの物語としてまとまるし、なにより強靭な背骨が通るのだ。
その「徹底」が、「裸に見える衣装を着る擬人化された動物」「動物のヌーディスト村」というアニメ史上に残るであろう、設定からしたら当然の帰結なんだけどよく考えるとエッジの利いたシュールですらあるギャグ、というのちに語り継がれるべき名シーンを産んだのだ。しかも衣装については冒頭の演劇シーンいきなり、である。「この映画はただの動物アニメじゃないぞ」という「本気度」をこちらに提示する。そしてそれと同時に世界観の説明をさらっと行い、更にラストへの伏線にもなっている、、、というまったくもってただ事ではないオープニングだった。
また、小さなシーンだが度肝を抜かれたのは愛すべき相棒・キツネのニックの髭、である。気が付いただろうか、ニックに髭はない。しかし髭の毛穴はちゃんとあるのだ。つまり「髭を剃る」という文化があの世界にあるというところまで徹底して設定してあり、しかもそれをきちんと描写しているのだ。
ディティールに神は宿るというが、おそらく『ズートピア』の神は一神教でなく八百万だ。「ディティールの集積として映画がある」というのはたしか押井守監督の言葉だが、しかし『ズートピア』は(時として押井映画が陥るように)ディティールに淫するだけではない。その「ディティールの集積」がエンターテイメントとしてしっかりとした質量を持って現れている。
それはSF的ですらある。というか、切り口によっては完全にディストピアSFとして語れるくらい、設定の論理性とセンス・オブ・ワンダーに溢れている。
それを産みだしているのは主としてガジェット(SF的小道具)である。なかでもズートピアに向かう列車は様々な動物のために大小のドアが設置されていてその開くメカニックだけで楽しいし、ツンドラ地区にある流氷を利用した動く歩道はアイディアとして最高だ。また、小動物の住む、他の動物からするとミニチュアサイズの地区。ここの大立ち回りの演出が怪獣映画パロディで、『ベイマックス』でのロボットアニメ・戦隊ヒーロー演出に次いで遂に怪獣までやられてしまった。本当に貪欲で、怖いことです。
ディズニーの真骨頂、ともいえるズートピアのテーマパーク感。そのガジェットのひとつひとつが発想豊かで、動作して楽しげで、かつ道具として(ある程度)ロジカルである。まさに「ズートピア」は理想的なSF都市であるのだ。そしてSF都市、一見ユートピアだからこそ、ディストピアとしての暗黒面が際立つ。
多様な動物が共存するために、つまり「バリアフリー」を実現するために様々な工夫・都市計画がなされてはいるが、結局それは表面上・技術的な「手当」でしかない、というリアリティがなんともSF的である。市民の内面に存在する不寛容、つまり「心のバリアフリー」はテクノロジーではまったく解決されない。「技術」と「人間性」というSF的テーマを、一見そうは観せずに、あくまでテーマパーク的楽しさで包装して、描いている。また、その都市の仮初の「平穏」を破壊するテロの方法が「野生」を目覚めさせる、というのも、なんとも示唆的だ。文明と本能、技術と精神。そういう重厚な「人間的」テーマを、繰り返しになるが「子ども向け動物アニメ」で描くことに成功しているのだ。
何度も言うけど、この作品は極上のエンターテイメントなんだ。「重いテーマを扱うから」なんて甘えの余地のないエンターテイメントなんだ。それでも、テーマに真っ向から向き合って語っている。語り切っている。だから凄いんだ。

まだ書けることが尽きないので、なんと3部作になります。
次回は「脚本編」。こんなに盛りだくさんの『ズートピア』が、90分位に収まるのか。そのストーりーテリング=圧縮術を考察するとともに、「伏線」という中毒性の高いギミックをどう効果的に使うかについて、自分なりの考えをまとめようと思います。


posted by 淺越岳人 at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月19日

『ズートピア』がすごい:テーマ編

『ズートピア』について書く。
先に断っておく。エンディングまで触れる。ネタバレには一切関知しない。書きたいことが多すぎて取り留めなく、だから長くなる。

『ズートピア』は甘くない。
冒頭から牧歌的な感じで始まるかと思えば、主人公ジュディの両親がいわゆる田舎の小市民、「自覚なきレイシスト」であるとのっけから描写される。「ウサギ初の警官になる」という夢を叶えたはずのジュディに突きつけられるのは、自分が「市政方針で小動物の社会進出をアピールするための素材」に過ぎず、それによって職場で疎まれパワハラを受けるという、きつい現実。主人公の相棒(バディ)ニックの幼少期のトラウマ描写も本当にエグい。事件を解決したと思ったら、ジュディの不用意な発言がメディアと世論の暴走を産む。このように子供向けアニメではギリギリじゃないか、と心配になるようなシーンが連続する。驚いたのはドラッグ工場の描写。リアルな「現場感」があって(そして同時に『ブレイキング・バッド』のパロディでもあるから凄い)、アニメなどでの薬物の扱いに厳しいアメリカで良くできたなあ、と感心した。
日本でも『ONE PIECE』がかなりこういう社会問題についての表現についてかなり切り込んでいるが、アニメではオミットされたエピソードもあり(サンジ・ゼフの過去編のアニメ版改変については絶対に許さない)、さらに『ズートピア』の描写はより「直截」だ。メタファーとして置換するのではなく、現実の社会問題を社会問題としてできる限りそのまま表現している。
作品の舞台「ズートピア」は、多民族国家アメリカそのものだ。「様々な動物が仲良く暮らす理想郷」として作られた都市だが、実際は消すことのできない差別意識に支配されている。理想郷(ユートピア)を建造しようとする健全な精神が、ひとつの堕落した都市を産む、、、現代でユートピアを描くということは同時にディストピアを描くことになる。『ズートピア』はタイトルが示す通り、「都市」の物語だ。ひとつの都市=共同体をどう維持していくか、という集団の物語だ。そのうえで、集団のなかで「個人としてどう生きるべきか」、という個人の戦いを描いている。しかし、個人の戦いを通して表現されているのは、個々人が共同体をどう作り「都市としてどう生きるべきか」という大きな問いについての回答なのだ。
『ズートピア』の肝のひとつに、「動物を擬人化するが、サイズは実際の動物に準ずる」という設定がある。ゾウやシロクマのような巨大で強い動物と、ウサギやネズミのような小さく弱い動物が共存しているのだ。それ自体は美しいことだが、明らかな見た目の違い、育った文化や身体的な特徴によって、どうしても生まれる「差」。さらにそこに付随する「ウサギは間抜けで弱い」「キツネは狡賢い」という「種」についての固着したイメージ(このイメージが創作物の中で我々が動物たちに当てはめてきたステロタイプそのまま、というのがまた風刺が効いている)。差別というものがいかに「生まれやすく・消せない問題」かということがきちんと書かれているのだ。
「これ子ども向けなの?子どもにわかるの?」みたいな声もあるだろう。しかし、「わかる」のが大事なのではない。いつかこういう問題に直面する、そのときに「ああ、こういうことだったんだ」て思い出す時が来る。アニメ監督富野喜由季は、「子どもは理解しなくても皮膚感覚的に捉える」として、『ガンダム』に代表されるように子どもには難解とされても背景設定・問題提起のレベルを下げなかった。解りづらくとも現実と真正面から向き合ったこうした作品こそ、いつか子どもたちの指針になると思う。現実は剪定された理解しやすいものじゃない。多面性を失った理解しやすい現実=誰かの作った都合のいい「物語」こそ、危ういのだ。
ここまでなら、この映画は「ディズニーアニメの皮を被った社会派作品」だ。そしてもしそうなら、俺はここまで騒いでいない。違う。アメリカ現代社会を描いていながら、この映画は活劇あり音楽ありの完璧な「ディズニーアニメ」だから物凄いのだ。
ディズニー得意の動物を主人公にした、戯画としての物語。描写はいかに鋭くても、そのファンタジーが底流に流れていることで、エンターテイメントとして充分に(どころか超一流)成立している。アート・シュピーゲルマンがヴィジュアルノヴェル『マウス』でホロコーストの凄惨さをあくまでコミック=エンターテイメントで扱うために、登場人物を擬人化した動物にしたのも一例だが、こうすることで通常エンターテイメントに適さないような痛烈で直截的な描写を可能にしている。
一見これは後ろ向きな緩和策に見える。インパクトのある描写をわざわざ希釈しているのではないか、とも思えるかも知れない。しかしどんなに強烈で大切なメッセージも、伝わらなければ意味がない。エンターテイメントとして成立させることで多くの人間の視界に入ることができるなら、そちらの方が重要だろう。また、『ズートピア』では設定を生かし肉食動物・草食動物という対立軸を設けることで、より人種問題と構造を接近させているので、伝えるべきテーマが薄まるどころか深みを増しているのだ。

というところで、続く。
次回は『ズートピア』の設定が、この重厚なテーマをいかにわかりやすく、そしてなによりエンターテイメントとして強靭なものにしているか、という「設定編」、の予定。あくまで予定。



posted by 淺越岳人 at 01:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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