この作品の楽しさが、ブロックバスター的なエンターテイメント要素盛り沢山ということに起因していることは前にも書いた。バディものであり、ノワールであり、ディストピアSFであり、正気を失った動物たちはゾンビ映画のようであり、昔ながらの活劇であり、、、そこに幾つものパロディを加え更に社会的な強いメッセージを盛り込んでいるのだから、映画としてのサイズはかなり巨大である筈だ。しかし、結果として子ども向けアニメとしての適正な尺(というか映画って大体このくらいでいいよね)に収まっているし、詰め込み過ぎて筋がわかりづらい、なんてことも当然ない。
これはただただ、脚本の構成の巧さである。と言っても、新しいことも珍しいこともやってはいない。基本に忠実に精緻に組み上げられているだけだ。
物語の筋としては典型的なポリスストーリーである。興味の持続として「陰謀の黒幕は誰か」というサスペンスがあり、そこに主人公と相棒の関係性(男女ペアなのにあまり恋愛が前面に出てこないのもいい)の成長がメインの柱としてある。まず「あらすじ」がしっかりしているからそこに様々な要素を入れ込んでもブレないのだ。そして、物語の展開が適度に早く、説明的なシーンがないこと。世界観の説明を「劇中劇」という形で冒頭にやってしまうのもそうだし、前回触れた街のギミックやガジェットで「そういうものなんだな」というルールづけをしっかりやっているから、余計な説明を必要とせず、アクションや謎解きに時間を使える。エンターテイメントのお手本のような作り方である。
また、印象的な台詞やシーンを「伏線回収」したり「引用」したりすることで、登場人物の成長に説得力を持たせつつ、物語としての「快感」を増すという誰もが好きな手法をきっちり決めることで、ストーリーテリングのスピード感を落とさずに、物語のターニングポイントを明確に観客と共有することに成功している。
なかでも物語が展開する要所の核となる、騙して協力させる→逆に騙して本音を言わせる→2人で協力して騙す、という同じ手口の連鎖・展開が本当に見事。しかも暴力ではなく知恵での解決、というのも野生・本能(生得的差異、そこから産まれる差別感情)を超えた「理性」の勝利、「内なる獣性のコントロール」という本作のテーマにも則っていて、更にそれが冒頭の演劇シーンともリンクしているのだから、鮮やかの一言。ニックとジュディのニヤッという表情が、観客にも「やられた!」という快感を残す、素晴らしい解決パートだ。
ただ、そもそも多機能(ペン+ボイスレコーダー)の小道具を多義的に使ってそれで巧さを見せる、というのは正直少しズルだとも思う。まあ実在するアイテムだからセーフだし、書類を出して「ペンならある」と言って渡すシーンがちゃんといいシーンなのでOKだ。。完全に架空のアイテムであれをやったら完全にご都合主義の反則(長期連載のマンガなどでまま見られる)である。
このように、伏線回収や引用には物語の推進力となり、解決の満足感につながる快感がある。そして、それにより観客を物語に乗せ、最小限の要素で説得力を持たすことができる。しかし、最近になって「気持良い」に留まらない、ある機能があると考えるようになった。
『マッドマックス:怒りのデスロード』で印象的な台詞(そもそもこの映画自体台詞が殆どないのだが)がある。「Redemption」、訳すと「解放」や「贖罪」になるのだが、この言葉が主人公とヒロインの間でキーワードとして交換されるのだ。
暴力的支配者イモータン・ジョーから逃れたヒロイン、フュリオサは自分の行動を「Redemption」である、と主人公マックスに語る。旅の果て、すべてを失ったフュリオサたちにマックスは言う。ジョーから逃げるのではなく、彼のテリトリーを奪うことこそ残された最後の道、「Redemption」であると。
このシーンを観てから、物語の技法としての「引用」に、単純な伏線的快感以上の効果があることに気付いた。引用は、コミュニケーションなんだ。相手の言葉を受け取っての引用によって、二人の魂の交換を表現する。コミュニケーションのもっとも格好いい物語表現が、この引用だと俺は思う。その引用が意識的にしろ無意識的にしろ、自分の言葉が相手の口で・行動で再現され、それによって奮い立つ。相手が自分の言葉を理解し受け取っていることが伝わる。このように、「引用」に勝る「交感」の描き方はなかなかないんじゃないかな、と思うのだ。また、アメリカン・アニメ映画の超傑作である『アイアン・ジャイアント』でも主人公と相棒である巨大ロボットの間で引用がなされ、それが物語のテーマとも一致している(のでぜひ観てください。最高だから)。
『ズートピア』は明確なワン・センテンスの交換ではないが、先述した「騙す→騙される→二人で騙す」という、その交換自体が最終的に「必殺技」になっている構図がとても美しい。台詞のやり取りでないのでスマートさいは欠けるが、その分鮮やかさと意味性を、伏線的快感と物語的快感をフィニッシュとして同時に味わえる強いシーンになっていたと思う。
伏線・引用は効果的に使えば、登場人物の成長やコミュニケーションや関係性の深化を描くことができる素晴らしいツールだ。単に気持いいから、脚本巧く見えるから、で使うのは勿体ない。
まあそもそも、まともな伏線にもなっていないものが伏線と呼ばれるこんな世の中じゃ、なんだけど毒を吐くのは別の機会にしよう。
最後に、ラストシーンについて触れておきたい。
ディズニーのお家芸パーティーシーンでハッピーエンド、そのままクレジット。なのだが差別の構造的な根っこの部分が解決されたわけでは当然、ない。そしてそういう風には描かれない。あくまで解決したのはひとつの事件(ケース)で、本質的な都市の暗部は残ったままだ。
しかし。
肉食動物も草食動物も、音楽でひとつになれるんだ。
流れるテーマ曲(シャキーラの『Try Everything』)は、まさにアメリカン・ポップスという楽曲だ。それはR&Bだったり、ハウスミュージックだったり、多民族国家アメリカだからこそ産まれた様々な音楽のミクスチャーである。それが今世界中で鳴っている。世界中がアメリカンポップス、そしてそれに影響を受けた音楽でで踊っている。
都市としてズートピアが抱える問題は、アメリカの問題そのものだ。だけど、そのアメリカで産まれた文化(カルチャー)は、やっぱりすごいものだと俺は思う。アメリカって国に関しては(特にあのバカがしゃしゃり出てきてからは)色々思うところはあるのだけど、そして影は決して消えないけど、音楽で、そして映画で。彼らが発信し続ける肯定的なメッセージは本物だ。アメリカが、その血みどろで哀し過ぎる歴史の果てに掴んだ多様性が産んだ、最先端の表現で、俺たちは繋がれる。そしてアメリカン・カルチャーは、(例え世論が時代がヤバい方に傾いても)「理想」をメッセージとして発信し続ける。あのエンディングはただのパティーシーンではなく、そんな強い覚悟の表現だと感じた。こんな「今」だから余計にそう感じた。